amakioto/ 8月 24, 2019/ ワークショップ, 舞台/アート/ 0 comments

自分で自分のやろうとしている小さなことを肯定し、継続していくのって難しい。

一体このことに、何の意味があるのだろうか?

誰の目にもとまらず、理解を得られないとしても、それをやる意味や価値はあるのか。

本当に時々、そういう不安や自己否定に襲われることがある。でもまあ、そういう時は大抵、他の誰かのやっていることや評価されている事と比べてしまうときだ。

これをやりたいな。
こんなことしたらどうだろう?
あの人と話してみたいな。
あの演奏で踊ってみたいな。

ただ誰の目も気にせずに、一滴の希望のような、ワクワクするようなアイデアを手にとって、人と繋がってゆく。今、生きているんだと感じられることをする。

ただやりたいからやる。

そのシンプルな想いを形にするまで、どれくらいの時間と思考とお金を掛けられるか?時には不規則になり、生活が狂うことがある。

しかし、命の燃やし方は一人一人違ってよくて、何十年掛かってこれだけか…という結果になったとしても、やりたいからやる、ということを達成するのとしないのでは大きく人生が変わる気がする。

何でこんなこと考えてたかというと、11月下旬から、夫である京極朋彦と共に、ソウルダンスセンターのレジデンスプログラムにて二週間の滞在制作をおこなうことになりました。

2017年に京極の滞在制作にダンサーとして関わり、一ヶ月滞在したこともありますが、今回は初めて自分の新作について探ることになります。

元々、応募した時は2016年に創作した「四角形のゆううつ」を韓国人ダンサーに振付しようと考えていましたが、今回は制作費が一切出ないため、リサーチに重きを置くことに切り替えました。

リサーチに重きを置くということの方が、実はかなり難関なのですが…(言葉でのやり取りが多くなるから)色々考えた挙げ句、韓国人作家の本を一つの手掛かりにしようと考えました。

私は英語も韓国語もままならないので、対話のための共通言語を作ろうと思ったのがきっかけですが、正直、そのテキストを使ったところで大変だと思う…

でも、人の作品ではなく自分の言葉で韓国人ダンサーと関わりたいというのはずっとやりたかったことの一つなので、不安だけど嬉しい、ということの方が大きい。

人が人を知ろうとする方法は、それこそ人の数だけあって、何が正解というのは無い。

自分だったら、どうやって相手を知ろうとするだろうか?

先ずこのことから始めようと思う。

さて先日、神河町で月1回継続している「楽やダンスサークル」のメンバーの間でも、このワークを試してみた。

このメンバーは、面白いことにダンサーやアーティストではなく、カフェ経営、福祉、建築、保育、公務員など…それぞれの仕事を持ちながらもアートを楽しんでいる人たち。いつも私の、纏まらないアイデアに付き合ってくれる貴重な仲間たちです。

言葉をダンスに変換し、ダンスを言葉に変換する。

今回は、私が変換したダンスを皆に観てもらい、いくつかルールがある中で言葉におこしてもらった。(実は、こういうガチのダンスを皆に見せるのは初めてでした。)

本当は、いくつかの展開の方法はあるのだけれど、時間に限りがあるので、言葉におこしたものについてそれぞれに発表して貰うところでワークを終えた。

やり終えて改めて気づいたのは、これは、コミュニケーションのためのワークだということ。そして、見えている世界は自分の経験の上で成り立っているということ。ダンスを観ることは、現在の自分を観ることでもあるということ。

皆から出てきた言葉は、面白い程に違うものだった。奥深くにある意図については説明せずに、更にダンス作品を創ったことのない人たちがダンスの何を観てどういう言葉を選ぶのか?

私達は、一人一人観ている世界が違う。

生きてきた過程が全く違うから、当たり前のことだ。創作して作品を発表するとは、この前提があることを受け入れた上で、何をどう提示するか考えることだということに、改めて気づいた。

私達は一人一人観ている世界が違う。

このことを、直に実感するための法則を、自分なりに考えていたのか…ダンス以前の問題や…と、改めて気づく。研究肌なのかな…

そして今回、初めてこのワークを開いてみて得た収穫は、他にもあった。それは、皆がアウトプットした言葉はそれぞれ違えど、フィーリングの部分、「言葉以前」の部分での共感があり得たということ。

ダンスという「言葉」を使わない不確かな表現は抽象性が高いため、受け手がどう感じようが自由だ、というところがある。勿論、それは一つの醍醐味でもあるし、その分かりにくさが大衆受けしない理由の一つでもある。

しかし、その受け手側の世界にも一歩踏み入れて対話するという試みは、今まで選んでこなかったことだから、よくよく考えたら、これは私なりの一つの変化なのかもしれない。

アイデアを練り、法則を探し、人と共有し、またアイデアを練る…

一体いつになったら作品になるのかは分からないけど、2017年から宙に浮いていた「長期的な作品創作」が根を張って、ようやくスタートしたんだわ、と感じた夜でした。

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