Amakioto/ 5月 10, 2019/ 日々の暮らし/ 0 comments

誰のための価値を生み出すのか

ここ一年半、今までと全く違う価値観のなかで仕事をしてきて、色々と気づいてきたことがあった。

これまで私は、「ただただ自己表現出来る場を求めていたダンサー」という時期を経て、その後、十数年かけて舞台や振付などで定期的に報酬を貰えるようになり、その仕組みについても考えるようになった。

報酬を貰えるという場合、必ず「お金の出どころ」というものがあり、それは一個人の振付家のポケットマネーの場合もあれば、大学や企業の予算や国の助成金でもあり、その額は財源や内容によりまちまちである。

最初の頃は、それこそ好きなことでお金が貰えるならどんなことでも受け入れていた。そもそも、ダンサーという職業はまだまだ社会的地位が低く、収入が安定しない。お稽古ごとで先生にお金を支払ってでも舞台に立つ、というシステムに慣れている人なら尚更、「好きなことをやること」で少しでもお金が貰える、ということに誇りを感じ、自分の使った時間、酷使した身体に見合わない報酬だとしてもさほど疑問を持たず、振付家から得た知識や経験の場を与えて貰ったことに感謝していた。

今思うと、その与えられたスキル…技術的なことというより精神論的な部分は、そういう気持ちがなければ全く引き継げないし、現在の自分を形成する位の大事な一部にはならない。お金のことはさておき、お金の出どころやシステムについて疑問を持ってしまったら、その過酷な条件に対しての不満が募り逆に得られるものも得られなかったような気がする。

「純粋に自分のやりたいことをやり、表現を追及する」ことに結果としてお金が生み出されることはある。そして、そのことを夢みる。

しかし、私は自分の給料が国から支給される今の仕事を始め、考え方がガラリと変わった。

まあ、ある程度経験があり、定期的に報酬のある舞台に出ていればわざわざ職を変えずとも分かるとは思うけれど、「お金の出どころ」にはお金を出す理由があり、その理由に基づいての働きをしているのか?が常に問われる。

つまり演出家や振付家がやろうとしていることを実現させるためにダンサーは何をしたら良いか考える。彼らを無視して自分の考えを表現していたら、クビだからね…。自分が振付家の立場であれば、助成金を取ってまで(取れないとしても)その公演をすることの意味を周りに伝え、更に社会的にも創作したものがどういう意味を持つのか提示する。自分だけが知っていて、自分だけがやりたいことをやることにお金は中々ついてこない。

それには、その価値を知ってくれる人が必要だ。または、ある価値観に合わせたものや、対象者が絞られたものは比較的伝わりやすい。その人たちが受け取り、価値を見出だしたのであればやりたいことをそのままやることは可能なのかもしれない。

つまり、例えばあることに困っている人が居て、その困っている人に対してこういうことが出来ますと提示する。それを行ったあかつきにはこれだけの効果が出ますよと更なる理由づけをする。(ここには数値化されたデータの比較検証があれば尚良い)お金を人に出して貰う場合、対象者、そしてその対象者に対しての価値、更にその価値にどのような社会的効果、費用対効果があるのかという裏付けを取る。それは比較的お金が生まれやすい。

どんなに自分の思いや気持ちが強くても、それだけではお金を生むことは出来ない。

ただ、芸術というのはお金を生み出すためのツールではないと個人的には思う。根本が違う。

やりたいことをやる。感じたことを表出する。人の価値と自分の価値は違うのだ、ということを知る。芸術は、人をつくる。

このことを、自分で履き違えないようになってくると、かなり楽になる。でもやっぱり時々ごっちゃになって、プライドが邪魔してしんどい思いをすることも沢山ある。まだまだだなぁ。

でも立場が変わると見えてくることがあって、アーティストという立場についての苦悩やギャラ交渉、様々な不満を抱え訴えているSNS を目にした時、昔は私も同感していたことが、今は違うように感じることもある。

自分がやろうとしていることは、誰のための価値を生み出すのか?

純粋に自分が表現したいだけなのか?それとも対象者に合わせたものを提供することで、正当な報酬が欲しいと思っているのか?それをごっちゃにしていないか?

私も、起業するか?しないのか…?
そろそろ動き出そうかな。

のんびりしている暇はないのだけど、何かのんびりしちゃってるんだよなー。

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